師匠シリーズ。
「『すまきの話』2/3」の続き
【僕】 師匠シリーズを語るスレ 第8夜 【俺】
937 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:30:08 sgJKT7Op0
「ケガ」と、歩くさんがこちらを指さす。見ると右足のズボンの膝が破れていてる。
掌の痛みばかりに気をとられて気が付いていなかった。
「待ってて」
薬箱でも持ってこようとしたのか、そう言ってくるりと踵を返そうとした彼女を、呼び止めるように口を開いた。
「これは夢ですね」
ぴたりと動きを止めて、彼女はもう一度こちらに向き直る。
「どういうこと」
いつも表情に乏しい彼女が眉を寄せる。
あの公園で見た光景を説明しようとして息を吸い込んだ。けれど俺はそれきり言葉につまる。
それを言葉にしてしまうと、まるで、取り返しの付かない恐ろしい幻を、現実にしてしまうような気がして。
俺はとっさに本を探した。雑誌、いや新聞でもいい。なにか膨大な情報の詰まった紙が欲しい。
昔自然に身につけた、夢の中でそれが夢であると気づくための技術だ。
ほっぺたをつねるとか、なにか特定のキーワードを叫ぶとか、みんなそれぞれ夢を認識するための、
あるいは、夢から目覚めるためのコツのようなものを持っている。
俺の場合はそれが本を読むことだった。
そこに書いてあるべき情報量を、とっさに夢を再生している脳が提供できないから、
まるでボロが出た狐狸の類のように、夢の世界が壊れるのだ。
しかし、歩くさんの部屋は小綺麗に片づけられていて、
玄関とそこに続く台所周辺には、本や雑誌類はまったく転がっていない。
ドアに付属している郵便受けからこぼれ出た新聞が、そのまま玄関に放置されている俺の家とは大違いだ。
説明の代わりに、俺は師匠から託された言葉を繰り返した。
「これは夢ですね」
歩くさんはどうやら大変なことが起こったらしいと判断したのか、
口調を強めて「だから、なにがあったの」と言う。
939 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:32:49 sgJKT7Op0
けれど今の自分の中には、その言葉しか存在していない。だからもう一度繰り返す。
泣いているらしい。声が震えている。誰が?自分が?どうして?
「落ち着いて。夢って、あなたの夢ということ?だったら違う。だって……」
歩くさんはそこで言葉を切って、口の中で続きをゆっくりと吟味した。
「まず、私には自我がある。自分の意思で今喋っている。
これがあなたの夢ならば、
ずっと続いている私の意識が、あなたの頭が生み出したつくりものだということにならない?
そんな怖いことは考えたくないけど。自分のほっぺ抓ってみた?」
俺はかぶりを振る。
「というか、抓るより痛い目にあったみたいね」
血が床に滴っているのを見つめる。
「これは夢ですね」
「だから、違う。夢じゃない」
「これは夢ですね」
「なんのことなの。なにがあったの」
「これは夢ですね」
「違うっていってるでしょ。夢かどうかくらいわかるでしょう。
夢の中でこれが夢だと気づいたことはあっても、夢の中でこれは現実だと気づいたことはあった?ないでしょう。
今、ここにいることが現実だと知っている私にとって、これが夢じゃないことくらいわかりきってる」
「これは夢ですね」
「いったいなにがあったの。そう言えって誰かに言われたの?」
「これは夢ですね」
「答えなさい」
「これは夢ですね」
「ちょっと待って。……ホラ、電卓。適当に数字を打つよ。24587×98564=2456395168。
夢ならこんな計算一瞬で出来る?でたらめな数字じゃないってことを、検算して確かめましょうか?」
940 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:36:54 sgJKT7Op0
「これは夢ですね」
「夢じゃない」
「これは夢ですね」
「……どういえばわかるのかな。なにか急いでしなくちゃいけないことがあるんじゃないの」
「これは夢ですね」
「怒るよ」
「これは夢ですね」
「いいかげんにして」
「これは夢ですね」
歩くさんはなにか言おうとして、それを止め、深いため息をついた。
「どうしてわかってくれないの。これが夢だってことはどういうことかわかる?
現実だと思っている今の自分が、贋物だってことよ」
疲れたように壁にもたれかかる。
「あなたにとって現実ってなに?」
黒い瞳が真っ直ぐ向けられる。
「よく考えて答えなさい。するべきことは、その怪我の手当をして、問題を一緒に解決することではないの?」
俺は一歩、土足で彼女の空間に近づいて言った。
「これは夢ですね」
その瞬間、彼女は表情を歪め、蒼白になった顔を突き出した。
そしてたった一言、「よくわかったわね」と言った。
静かな声だった。
世界は暗くなった。
目は開いている。
薄闇の中、天井が見える。
瞬きをする。
946 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:48:56 sgJKT7Op0
背中に畳の感触。
身体を起こす。
師匠の部屋だ。明かりの消えた室内に、毛布にくるまった歩くさんと簀巻きになった師匠がいる。
胸がドキドキしている。静かな夜の空気に漏れ出るくらい。
簀巻きの師匠から乱れた呼吸の気配がした。
呼びかけてみる。
反応はないが、あきらかに寝たふりだ。
抜け出ようとしてもがいている時に、俺がいきなり起き上ったから驚いたというところか。
簀巻きをバシバシと叩く。
「わかった起きてる。起きてる」
師匠に今あったことを伝えた。
最後まで身じろぎせずに聞いていた師匠は、ひとこと「巻き込まれたな」と言った。
脳裏に以前あったことが蘇る。
冬に夢を見た。恐ろしい夢だった。現実の続きのような。
けれど目が覚めたとき、時間が巻き戻っていた。俺は恐ろしい夢が現実にならないように、別の選択をした。
あのときも歩くさんと同じ部屋で寝ていた。
歩くさんの見る予知夢に巻き込まれたのだと師匠は言う。
あの公園のベンチのそばのゴミ箱がフラッシュバックする。
あの匂いの生々しさも夢だったのか。
怪我をした痛みも。今が現実だと思ったあの判断も。
では、今の自分はどうだ。
手のひらを広げてじっと見つめる。あれが夢ならなにも信じられないじゃないかと思う。
油汗が流れる。
俺は歩くさんの不思議な力について、ずっと重大な勘違いをしていたのではないかという予感がした。
949 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:56:39 sgJKT7Op0
「とにかく、これ、ほどいて」
師匠がモジモジする。
「だめです。ほどくと死ぬらしいですから」
そう言ってから気づく。
「心当たりは?」
「え?」
「命の危険があるような目に遭う、心当たりです」
師匠は考えるそぶりを見せていたが、やがて首を振った。
「今夜は夜遊びをするつもりだったけど、行く先は決めてない」
今夜こうして簀巻きにされて行けなかった場所に、明日行くのだろうか。そして恐ろしい目に遭う?
「僕が行くとしたら、あそこかな。いや、あの心霊スポットも行ってみたかった」
師匠はぶつぶつと呟いている。
「いずれにしても、洒落にならないなにかが夜の街にいるらしいな」
あっけらかんとそう言う。
そうして毛布に包まって寝ている歩くさんに視線を向けた。
ぼそりと言葉が漏れる。
「いいか。もう絶対に、こいつにあの言葉は言うんじゃない」
「あの言葉?」
「しつこく繰り返したっていうあれだ」
「はあ」
「わかるだろ。こいつが今夜ここへ来た理由が」
なんとなく、わかる。
うまい言葉が出てこない。
結節点。いや、違う。楔か。
巻き戻りを止める、楔。
そのタイミングをなんらかの予感で彼女は知り、こうして俺たち三人をこの部屋に揃えたのだ。
952 :すまきの話 ラスト ◆oJUBn2VTGE:2009/06/21(日) 00:00:32 ID:m2hpAMu/0
「師匠は、その夢を本当に見てないんですか」
「……こんな状態で寝てられないだろう」
表情を窺ったが、嘘とも真ともつかなかった。
「しばらく、夜遊びは控えることにする」
師匠はそう呟いて目を閉じた。
歩くさんも眠ったままだ。
再び静かになった部屋の中で、俺はじっと考えていた。
あの師匠をあんな風にした、恐ろしいなにかのことについて。
そんな致命的な傷を負った世界が復元するという、暗い奇蹟について。
まったく想像もしていなかった。もしかしてひょっとすると、本人さえそう思っていないかもしれない。
眩暈のするような、口に出すのも憚られる、現実から目覚めるという、おぞましい不思議な力のことについて。
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