師匠シリーズ。
「『引き出し』2/3」の続き
【霊感持ちの】シリーズ物総合スレ8【友人・知人】
159 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:39:50 ID:vbLvaS0Q0
音響が静かにドアを開けていく。
後に続く俺の目の前に、薄暗い室内が広がる。手前の部屋よりもカーテンが厚いのか。
それでもそこには、夜明けの空気が満ち始めていた。
ガランとした部屋。異様な光景だった。
ベッドと小さなタンスだけ。あとはなにもない。けっして狭くない室内がさらに広く感じる。
そして、そのタンスの一番上の引き出しが開いている。
寒気がした。どこか遠くから耳鳴りが聞こえ、そしてフェードアウトしていくように消えていった。
ひっ、という息を飲む声がする。
音響が震える指で俺のシャツの裾を掴んでいる。
その視線の先にベッドの膨らみがある。その掛け布団の中から、小さな顔が覗いている。
その顔はタンスの方を見ている。首を捻った格好で。
目が、開いている。
まるで自分の意思ではないように、周囲の筋肉が強張ったまま、目が見開かれているようだった。
その目はタンスの一番上、一つだけ飛び出た引き出しを凝視している。
異常な気配が部屋を包んでいる。
俺と音響の息遣いだけが聞こえる。
二日前の話を聞いた段階では、夢の可能性が高いと思っていた。だが、現実には彼女の目は開いている。
ということは金縛りか。
だが……
今、この瞬間。
ベッドと引き出しの間の空間に、俺の目には何も見えないその空間に、彼女は何かを見ているのだろうか。
161 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:42:20 ID:vbLvaS0Q0
部屋の入り口で動けないでいる俺たちの前に、ベッドの中で動けないでいる少女の、
声にならない悲鳴が響いて来るような、そんな幻聴さえするようだ。
だが、何も、何も見えない。
見えないのに。彼女の大きく開かれた目は今、何を見ている?
悲鳴が上った。
脳天を直撃するショックがある。音響が頭を抱えて叫んでいる。恐怖心に耐え切れなくなったのか。
だが次の瞬間、俺の身体は無意識に反応した。
自分でもよく分からないことを喚きながらタンスに駆け寄り、引き出しを殴りつけるようにして閉める。
それに引きずられるように動いた音響が、少し遅れてベッドの上の少女に覆いかぶさる。
「起きて、起きて」
叫ぶように繰り返す。
俺は背後のタンスを気にしながら、その様子を見守る。
やがて、硬直したように首を曲げて目を開いていた瑠璃が、ビクンと全身を震わせると、小さく息を吐いた。
「起きた?起きた?」
音響が掛け布団を剥ぎ取って、その肩を揺さぶる。
軽い痙攣のような震えがその顔に走った後、瑠璃は小さく頷いた。とりあえずは大丈夫のようだ。
俺は少し落ち着いて、タンスの方を振り返る。
あの異様な気配はどこかへ行ってしまっていた。柔らかな木目調の、ただのありふれたタンスだ。
それでも身構えながら、そっと一番上の引き出しに手を掛ける。
恐る恐る引いていくと中には、白い布が見えるばかりだった。暗くてよく見えないが、靴下の類のようだ。
167 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:45:11 ID:vbLvaS0Q0
恐れるようなものはなにもない。あの気配は錯覚だったのか。
その時、背後からまた悲鳴が上った。全く予期してなかったので、飛び上がるほど驚いた。
それでも振り返り、ベッドの方を見る。
音響が口を押さえながら、震える指先で瑠璃の右手首を指している。
パジャマの裾から細い手首が覗いているのだが、その異様なほど白い肌に、濃い痣がくっきりと浮かび上がっていた。
それは人間の手の平の形に見えた。手首を掴み、ありったけの力で握り締めたような痕跡……
泣き出しそうなほど怯えている音響に対し、当の本人はきょとんとして、
事態を把握しているのかどうかも分からないような顔をしている。
低血圧の人間の寝起きだからなのか。
俺はとっさに暴漢の可能性を考えた。一人暮らしの女性の部屋に忍び込む不埒な輩。
だが入り口には鍵が掛かっていた。それはこの俺自身確かめている。
すぐにカーテンの隙間に手を突っ込み、この寝室の窓に鍵が掛かっているのを確かめる。
そして、二人を残したまま隣の部屋に移動し、
すべての窓とベランダへの出入り口に、鍵が掛かっているのを確認した。
念のために、風呂やトイレの中も勝手に開けて、中に誰も潜んでいないか調べる。
広いとは言っても、所詮マンションの部屋だ。すぐに、俺たち三人以外誰もいないことは分かる。
ということは、俺と音響がやってくるまで、このマンションの部屋は密室状態だった。
そしてあの痣を見るに、ついてからさほど時間が経過していないだろう、ということを合わせて考えると、
合理的に出せる結論は一つしかない。
俺はすぐに寝室に取って返し、まだベッドから起き上がらない瑠璃の右手首を掴む。
そしてじっくりとその痣の跡を見る。
特徴的な部分がある。四本の棒とその向かい側の一本の棒。その位置関係をしっかりと確認する。
左手だ。
169 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:48:30 ID:vbLvaS0Q0
彼女の右手の手首にこの痣をつけたのは誰かの左手。
そして、その誰かとは……彼女自身。
「なにするの」
音響が抗議の声を上げる。
これは自傷行為の一種なのか。
引き出しから出てくるという白い手も、彼女の妄想の産物なのだろうか。
あるいは、毎晩引き出しを開けていたのも彼女自身なのかも知れない。
自分のしていることを、まるで他人にされているように感じる精神障害があるらしいが、
この少女もそういう心の病を抱えているのだろうか。
そう考えていると、逆にゾッとするものがあった。
だが次の瞬間、俺の目は信じられないものを見た。
瑠璃が、俺に掴まれた右手を取り戻そうとするように、もう片方の左手をのろのろと伸ばして来た時だ。
そのパジャマの裾がずれて手首が露になる。
そこには右手の手首と全く同じ形の痣が浮かんでいた。
思わず息を飲んだ。
痣。
左手首にも痣。
向かい合う四本の棒と一本の棒。思い切り握り締められたような跡。
左手首に左手の跡?
俺は自分の手の平を凝視して、人間の指の構造を確認する。
あの痣は間違いなく左手で付けられたものだ。
どうすれば自分の左手首に、左手で握った痣を付けられるんだ?
それとも、密室状態のこの部屋の中に彼女以外の誰かがいて、そして忽然と消えたというのだろうか。
俺は自分の背後にあるタンスに、再び異様な気配を感じた。
だがそれは、俺の錯覚に過ぎないのだろう。ただの恐怖心が生み出した幻に……
171 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:51:45 ID:vbLvaS0Q0
瑠璃はその自分の左手首の痣に気づき、そこにじっと視線を落としていたかと思うと、一言ぽつりと呟いた。
「He seemed to have come to this room……」
俺は彼女の顔を改めて見る。
その時、カーテンから射し込んだ光が、その瞳に反射してキラリと輝いた。
今さらのように気づく。二日前と目の色が違うことに。
あの時は確かにエメラルドグリーンだった。いかにもカラーコンタクトらしい安っぽい色をしていた。
けれど今、目の前にいる少女の目は、鮮やかなブルーだ。
カラーコンタクトをしたまま眠りはしないだろう。
いや、そういう常識を抜きにしても、それが彼女のナチュラルな目の色であることは直感で分かった。
「日本人じゃ、ないのか」
そう呟いた俺に、音響が横から口を尖らせる。
「だから通訳してたじゃない」
斜めに射し込む明け方の光の中に、人形のような顔をした少女が微かに微笑んだ気がした。
その後の顛末は、また別の機会に話そう。
この少女が持ち込んだ事件は、簡単に語れないほどやっかいな事態を引き起こして行くのだから。
そのためにはもう少し、それに関わる過去を掘り起こす必要があるだろう。
ただ、一つだけ付け加えることがある。
その土曜日から数日後、俺は古本屋に立ち寄った。
そこでふと思い出して、ルブランのルパンシリーズの小説を探してみた。また読みたくなったのだ。
だが、なかなか見つからない。
うろうろと店内を歩き回ることしばし。盲点だった入り口近くでそのコーナーを発見した。
174 :引き出し ラスト ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:54:49 ID:vbLvaS0Q0
しかしそこにあったのは、南洋一郎の翻訳による子ども向けのルパンシリーズだったのだ。
がっかりしながらも、小学生のころに何冊か読んだことを思い出して懐かしくなり、一冊抜き出して手に取ってみた。
やっぱり、今読むと平仮名が多く、表現も容易でなんだか違和感がある。
くすぐったくなり、棚に戻す。
そして、その近くのあったタイトルが目に留まった。
それを見た瞬間、笑い出してしまう。だって、おかしいから。
あの時カレー屋で音響が驚いたわけが分かったのだ。俺が『オーレリー』と呟いた時だ。
緑の目の令嬢とでも称えるべき瑠璃の容姿をあげつらった俺に対し、音響は『どうして知ってるの』と言った。
同じルパンシリーズを読んでいる人間だと、お互いここで分かったわけだが、その時の彼女の言葉のニュアンスは、
俺がそう受け取ったように、『どうしてあなたもその小説を読んでるの』という単純なものではなかったらしい。
そこには、ある隠された真実を、一目で見破られたことへの驚きが込められていたのだ。
俺は笑いながら、そのタイトルの背表紙を棚から抜き出す。通り過ぎる客が変な目でこっちを見ている。
本の中身を確認して、やっぱりと思った。
ドラえもんも見てないくせに、ルパンシリーズは読んでるなんて生意気だと思ったのだが、
どうやら早とちりだったらしい。
音響は、この子供向けの南洋一郎訳のシリーズを読んだだけだったのだ。
俺が別の翻訳家による邦題、『緑の目の令嬢』として記憶していた本を、
彼女は南洋一郎の翻訳によるタイトルで覚えていたらしい。
頁を閉じ、薄く埃を被っているその本の表紙を軽く息で吹く。
『青い目の少女』
なるほどね。
また、笑った。
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