師匠シリーズ。
死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?231
864 :通夜 ◆oJUBn2VTGE:2009/11/14(土) 00:07:01 ID:vynNPKLZ0
女の子はその暗い廊下が好きではなかった。
かび臭く嫌な匂いが壁や床に染み付いている気がして、そこを通るときにはどうしても息を殺してしまう。
その廊下の先にはおじいちゃんの部屋があった。女の子が生まれたころからずっとそこで寝ている。
足が悪いのだと聞いたけれど、どうして悪くしたのかは知らなかった。
昔は大工の棟梁をしていたと、自慢げに話してくれたことがあったから、
きっと高いところから落っこちたんだろうと、勝手に思っていた。
部屋を訪ねると、おじいちゃんはいつも喜んでくれて、お話をしてくれたりお菓子をくれたり、
時にはお小遣いをくれることもあった。
そんなことがお母さんに知られると、怒られるのはおじいちゃんだった。
「近ごろの嫁は、口の利き方がなっておらん」とぶつぶつ言いながらしょげえり、
そんなことがあった夜には、痛い痛いと大げさに騒いでお父さんに気の済むまで足を揉ませた。
『あてつけ』という言葉を知ったのは、そんな時にぼやくお母さんの口からだった。
その日も女の子は、ミシミシと音を立てる暗い廊下を通って、その奥にある襖に手をかけた。
「おじいちゃん」と言いながら中腰で襖を開け、膝を擦るように部屋の中に滑り込む。
薄暗い室内は空気が逃げ場もなく淀んでいて、外の廊下よりも嫌な匂いがした。
部屋の真ん中に布団がある。女の子が覚えている限り、そこに布団が敷かれていない時はなかった。
「おじいちゃん」
ここに来ると自然に甘ったるい声が出る。その語尾がひくりと掻き消えた。
うっすらと膨らんだ掛け布団から顔が出ている。
その顔の方から、いつものかび臭さではない、異様な匂いが漂ってきていた。
唾を飲み込みながら目を凝らして近づいていくと、蝋のように白い、それでいて光沢のない顔が天井を仰いでいた。
口元にはなにか液体が垂れたような跡があった。嫌な匂いはそこからしているようだ。
「おじいちゃん」
もう一度呼びかけてみたが反応はなかった。
膝が震えた。
眠りが浅く、いつもは誰かが部屋に入って来るだけで起きてしまうのに。
866 :通夜 ◆oJUBn2VTGE:2009/11/14(土) 00:11:41 ID:wTRxtdGI0
吐いたものが喉に詰まったんだと思った。すぐに掻き出してあげないといけない、そう思っても身体が動かない。
部屋の中は冷え切っていて、視線の先には生きている者の気配はまったくなかった。
布団の端から手が出ていたけれど、皺だらけのそれは力なくだらんと伸びている。
恐る恐る触れてみるが、そのあまりの冷たさに息を飲んで指を引っ込めた。
まるで吹きさらしの大根を触るようだった。
どうしよう。おじいちゃんが死んじゃった。
女の子はうろたえて、部屋の中をキョロキョロと見回した。
大人を呼ばないといけないという、あたりまえのことが思いつけなかった。
どうしようどうしよう。
彷徨う女の子の視線の中に、背の低い箪笥が映った。おじいちゃんと同じくらい年を取った黒っぽい箪笥。
煤けたその木目を見ていると、自分の胸が高鳴り始めていることに気づく。
その箪笥の一番下の引き出しには、綺麗な色の巾着袋が仕舞ってあるはずだった。
そしてその袋の中には、大粒の真珠をあしらった指輪が眠っている。
女の子が今よりもっと小さかったころ、おじいちゃんが一度だけ見せてくれたのだ。
『死んだおばあちゃんの形見だ』と言って、照れたように笑いながら。
おばあちゃんが死ぬ少し前に、ずっと欲しがっていたその指輪をこっそり買ってあげたのだという。
今際のきわに指に嵌めてやると、おばあちゃんはただぽろぽろと涙を流していたそうだ。
『お父さんもお母さんも知らないんだ』と言った時の、いたずら小僧のような顔は今も忘れられない。
一度見せてもらってからというもの、女の子はその指輪が気に入ってしまい、何度も欲しい欲しいとせがんだ。
でも『こればかりは遣れん』と、おじいちゃんも譲らなかった。
『お嫁に行っても?』と訊くと、少し困った顔をしたあとで、『お嫁に行ってもだ』と答えた。
また見せてと言っても、『もういかん』と怒ったように首を振り、
こっそり見ようにも、おじいちゃんはいつもこの部屋にいて目を光らせているので、箪笥を覗く隙もなかった。
そのおじいちゃんが死んだ。
868 :通夜 ◆oJUBn2VTGE:2009/11/14(土) 00:13:32 ID:wTRxtdGI0
どきどきと身体の中から音がする。
今なら指輪を見られる。見ても怒られずにすむ。
いけないことだと分かっていながら、勝手に動く足が、腕が、指が止められない。
息を詰まらせながら箪笥を引き、家の中の微かな物音に怯えながら巾着袋を探り当てる。
震える指で袋の口を縛っていた紐を解くと、中には色いろ大事そうなものが入っているのが見えた。
紙の類を掻き分けながら探っていると、指先に硬い小箱の感触があった。
ゆっくりとそれを袋から出す。両手を添えて蓋を開けると、見覚えのある指輪が出てきた。
真珠の指輪だった。
『悪い子だ悪い子だ』
自分を罵る自分の声が聞こえた。
『だって見るだけだから、見るだけだから』と自分で自分に言い聞かせながら、
本当の本当はこうするつもりだったんだから。
女の子はスカートのポケットに、指輪をすとんと落とした。
空の小箱を袋に戻し、どうしようもなく暗い気持ちで、目を泳がせながら箪笥の方に向き直ったその瞬間、
女の子の耳は「ぶぶ」という音をとらえた。
ひやりと背中を冷たい手が撫でていった気がした。
袋を持ったまま首をめぐらせると、そこには布団に仰向けに横たわったままのおじいちゃんがいる。
他には動くものの影ひとつつない。
とくんとくんと脈打つ胸を押さえながら、ゆっくりと布団に近づく。
斜め上から首を伸ばし、その凍りついたような顔を覗き込む。
白目を剥き、口からは吐瀉物を溢れさせたままで、見るも恐ろしい苦悶の表情がそこに貼り付いていた。
「ぶぶ」
また音がした。
おじいちゃんの喉が微かに動いた。
悲鳴を飲み込んだ女の子の両手の指が、痙攣するように顔の横で開いた。巾着袋がおじいちゃんの手の先に落ちる。
足が自然と後ずさり、畳の上を滑るように布団から離れると、女の子は部屋から逃げ出した。
混乱する頭で薄暗い廊下を抜け、自分の部屋に飛び込む。
『どうして。どうして』
そんな言葉ばかりがぐるぐると回っている。
『死んでいたのに。死んでいたのに。どうして』
869 :通夜 ◆oJUBn2VTGE:2009/11/14(土) 00:16:05 ID:wTRxtdGI0
それから部屋の隅でうずくまったまま、ガタガタと震え続けた。
脳裏にあの恐ろしい死に顔と、『ぶぶ』という気味の悪い音が何度も蘇り、そのたびに目を強く瞑り耳を塞いだ。
どれほどの時間が経ったのか、やがて家の中の静けさが一筋の悲鳴に破られた。
「おやじが死んでる」
お父さんの声だった。女の子はびくりとして顔を上げる。ついで「はやく来てくれ」という怒鳴り声。
耳を澄ましていると、ドタドタという家族の足音がいくつも重なって聞こえた。
女の子はおっくうな重い腰を上げて、自分の部屋から顔を出す。
その鼻の先を掠めるように、布巾を手にしたお母さんが駆けていった。
やがておじいちゃんの部屋の方から、騒々しい声が溢れ始める。
死んでた?やっぱりおじいちゃんは……
なぜか今ごろになって涙が出てきた。悲しいという感情が、ようやく全身に巡り始めたようだった。
のそのそと立ち上がり、廊下に出る。
みんなの声のする方へと足を運ぶと、おじいちゃんの部屋からお父さんの喚き声が流れてきた。
お父さんは布団に取りすがりながら「おうおう」と泣いていて、
お兄ちゃんとお姉ちゃんはオロオロとするばかりだった。
お母さんはおじいちゃんの口元を拭きながら、近所のお医者を呼んでくるようお兄ちゃんに言いつけていた。
襖のそばで立ちすくみながら、その光景を見ていた女の子は、
部屋のある部分に目を遣った瞬間、そこに釘付けになった。
箪笥が閉じている。
思い返せば、巾着袋を箪笥に戻す前に部屋から逃げてきてしまったはずだった。
そのままにしておけば、自分が指輪を取ったことが家族に分かってしまうかも知れない、
ということにまで頭が回らなかった。
なのにその箪笥が、今目の前で何ごともなかったかのように、おじいちゃんの死を囲む背景に溶け込んでいた。
そうだ。巾着袋は?
女の子はキョロキョロと見回すが、布団の周りには落ちていなかった。
そこにいる家族の手元を見ても誰も持っていない。
それほど広い部屋ではない。どこにも見あたらないのはすぐに分かった。
息が苦しい。
女の子は胸元を押さえながら、ひたひたと背中の方からにじり寄ってくるような恐怖と戦っていた。
おじいちゃんが元に戻したの?
そうとしか考えられなかった。
自分が部屋から逃げ出したあと、布団からむっくりと起き上がったおじいちゃんが、
巾着袋を拾い上げ、箪笥にそっと戻した……
だとしたら。
女の子は震えながら涙を流した。さっきまでの悲しくて出てくる涙とは違う。
スカートのポケットの中の微かな感触が、途方もない罪悪感となって溢れ出してきたのだ。
おじいちゃんが大事にしていた、おばあちゃんの形見の指輪を盗った。
それを思うと、立っていられないほど哀しくなった。
「『通夜』2/3」に続く
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