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『貯水池』2/3

師匠シリーズ。
「『貯水池』1/3」の続き
死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?177

521 :貯水池  ◆oJUBn2VTGE :2007/09/26(水) 22:52:20 ID:gAYKdkL30
「あれはヤバイ」
緊迫した声だった。
クラッチを踏んでバックするべきか刹那の迷いのあとで、師匠の足は全開でアクセルを踏み込んでいた。
背もたれに押し付けられるような加速に息を詰まらせ、心臓がしゃっくりあげる。
「どうしたんですか」
ようやくそれだけを言うと、
助手席の窓から右手を挙げたままの黒い人影が、フェンスの向こうに立っている姿が一瞬見えて、
そしてすぐに後方へ飛び去って行った。
顔も見えない相手と、なぜか目が合ったような気がした。
「雨に濡れて途方にくれてるヒトが、なんでフェンスの向こう側にいるんだ。人間じゃないんだよ!」
そんな言葉が師匠の口から迸った。
フェンスは高い。上部には鉄条網もついている。
そして貯水池に勝手に入り込めないように、唯一の出入り口は錠前に固く閉ざされている。
その向こう側に車に乗せて欲しい人がいるはずは、確かにないのだった。
そんな当然の思考を鈍らされ、僕一人ならそのまま確実に心の隙につけこまれていた。
ゾッとする思いで、呆然と前方を見るほかはなかった。
しかし、すぐに気を奮い立たせ後ろを振り返る。
リアウインドの向こうは暗い闇に閉ざされ、もう何も見えない。
そう思った瞬間に、なんとも言えない悪寒が背筋を走り、視線が後部座席のシートにゆっくりと落ちた。
表面が水で濡れてかすかに光って見える。
女が忽然と車中から消える濡れ女という怪談が頭をよぎり、
つい最近読んだのは、あれは遠藤周作の話だったかと思考が巡りそうになったが、
脊髄反射的に出た自分の叫び声に我に返る。
「乗せてなんかいないのに!」


523 :貯水池  ◆oJUBn2VTGE :2007/09/26(水) 22:54:23 ID:gAYKdkL30
僕の言葉に、師匠も首を捻って後部座席を一瞥する。
そして、ダッシュボードから雑巾を取り出したかと思うとこちらに放り、「拭いといて」と言った。
唖然としかけたがすぐに理性が反応し、
座席を倒して、腫れ物に触るような手つきで後部座席のシートの水を拭き取ると、
師匠の顔を見て頷くのを確認してから、手動でくるくるとウインドガラスを下げ、
開く時間も惜しんで、わずかな隙間から外へとその雑巾を投げ捨てた。
まだ心臓がドキドキしている。
手についた少量の水分を、おぞましい物であるかのようにジーンズの腿に擦り付ける。
車はすでに対向車のある広い道に出ている。それでも嫌な感覚は消えない。
動悸が早くなったせいか、車のフロントガラスが曇りはじめた。
「これはちょっと凄いな」
師匠の口調はすでに冷静なものに戻っている。
しかし、その言葉の向かう先を見て、僕の心臓は再び悲鳴をあげる。
フロントガラス一面に、手の平の跡が浮かび上がって来たのである。
外側ではない。ワイパーが動いている。内側なのだ。
フロントガラスの内側を撫でると皮脂がつくのか、そのままでは何も見えないが、
曇り始めたとたんにその形が浮かび上がって来ることがある。
まさにそれが今起こっている。
けれどやはり、僕らは乗せてなんかいないのだった。貯水池の幽霊なんかを。
師匠は自分の服の袖で正面のガラスを、一面の手の平の跡を拭きながら、
「やっぱり捨てなきゃ良かったかな、雑巾」と言った。


641 :貯水池  ◆oJUBn2VTGE :2007/09/27(木) 05:36:42 ID:FJxftP2t0
カーステレオからは、稲川淳二の唾を飲み込むような声が聞こえてきた。
話を聞いてなんかいなかった僕にも、これから落とすための溜めだということが分かった。
やはり僕にはまだ笑えない。情けないとは思わなかった。怖いと思う心は、防衛本能そのものなのだから。
けれど一方で、その恐怖心に心地よさを覚える自分もいる。
師匠がチラッとこちらを見て、「オマエ、笑ってるぞ」と言う。僕は「はい」とだけ答えた。
その夜はそれで解散した。
「ついてきてはないようだ」という師匠の言葉を信じたし、僕でもそのくらいは分かった。

3,4日経ったあと、師匠の呼び出しを受けた。夜の10時過ぎだ。
自転車で師匠のアパートへ向かい、ドアをノックする。
「開いてる」という声に、「知ってます」と言いながらドアを開ける。
師匠はなぜかドアに鍵を掛けない。
「防犯って言葉がありますよね。知ってますか」と溜息をつきながら部屋に上がる。
師匠は「防犯」と言って、壁に立てかけた金属バットを指さす。
なんか色々間違ってる人だが、いまさら指摘するまでもない。
「ここ家賃いくらでしたっけ」と問うと、「月一万円」という答えが返ってくる。
ただでさえ安いアパートで、
この部屋で変死者が出たという曰くつきの物件であるために、さらに値引きされているのだそうだ。
「あの貯水池、やっぱり水死者が出てたよ」
本当に師匠は、こういうことを調べさせたら興信所並みだ。
言うには、あの貯水池で数年前に、若い母親が生まれたばかりの自分の赤ん坊と入水自殺したのだそうだ。
まず赤ん坊を水に沈めて殺しておいて、
次に、自分の着衣の中にその赤ん坊と石を詰めて浮かび上がらないようにして、
足のつかない場所まで行って溺れ死んだ、という話だ。


526 :貯水池  ◆oJUBn2VTGE :2007/09/26(水) 22:57:47 ID:gAYKdkL30
「じゃああれは、その母親の霊ですか」
「たぶんね」
では、何故迷い出てきたのだろう。
「死にたくなかったからじゃないか」
師匠は言う。
死にたくはないけれど、死ななくてはならないと思いつめていた。
その死にたくないという思いを押さえ込むための重しが、服に詰めた赤ん坊の死体であり石だった。
そしてそれは死んだのちも、この世に惑う足枷となっている……
「フェンスのウチかソトかっていうのは、そのアンヴィヴァレントな不安定さのせいだね。
 乗せてくれという右手と、乗ってはいけないというフェンスの内側という立ち位置」
「車に乗せてたら成仏してたわけですか」
「さあ。乗せてみたらわかるんじゃないかな……」
師匠の言葉は、どうしてこんなに蠱惑的なのか。僕はもう、今夜呼び出された目的を理解していた。
「じゃあ行こうか」
師匠が車のキーと金属バットを持って立ち上がる。
「いくらなんでもそれは、職質されたらまずいですよ」と言う僕に、
師匠は「野球好きに見えないかな」と冗談めかし、「鏡を見て言ってください」と返したが、
そもそもそういう問題なのかという気がして、「なんの役に立つんですか」と重ねるも、
「防犯」というシンプルな答え。
もういいや、なんでも。
僕も覚悟を決めて師匠の車に乗り込んだ。今日は雨が降っていない。


528 :貯水池  ◆oJUBn2VTGE :2007/09/26(水) 22:59:17 ID:gAYKdkL30
「稲川淳二でも聞こう」
夜のドライブにはやはりこのBGMしかない。僕もすでに洗脳されつつあるらしい。
「あの手の平。フロントガラスの。あれ、2種類あったよね」
「え?」
「いや、気づいてないならいい」
師匠はあの異常な状況下でも、ガラスに浮かび上がった手の平の形を冷静に判別していたのだろうか。
「それって、どういう……」と問いかけた僕に、淳二トークのツボに入った師匠の笑い声がかぶさり、
そのままなおざりにされてしまった。

車は前回と同じ道をひた走り、同じルートで貯水池へアプローチを始めた。
今夜は視界が良い。月も出ている。
同じ場所から減速をはじめ、師匠は「今日も出るかな」と言いながら、ハンドルをソロソロと操作する。
いた。
黒いフード。夜陰になお暗い、この世のものではない儚げな存在感。
その姿は、また今度もフェンスの内側にあった。そして右手を挙げている。
緊張が高まってくる。
車はその目前で停まり、エンジンをかけたまま師匠が降りる。慌てて僕もシートベルトを外す。
師匠がフェンスの格子越しに黒い影と向かい合っている。
手には金属バット。空には月。
「乗る?」
あまりに直截すぎて間が抜けて聞こえるが、師匠は師匠なりに緊張しているのが声の震えで分かる。
土の上になにか重いものが落ちる音がした。

「『貯水池』3/3」に続く

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