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『小さい命を守る者』2/2

「『小さい命を守る者』1/2」の続き
◇ 心霊ちょっといい話VER.12 ◇

801 :本当にあった怖い名無し:2008/02/12(火) 16:52:23 ID:VypTTS720
『もういちどだけお前を助けてやる』って台詞が引っ掛かる。
そのおじいさんと子供は、赤ん坊の時助けてくれた看護婦さんとも関係ある人なんじゃないか?
記念誌の写真、院長先生に見せたら知ってる人だったとか、ありそう。


808 :本当にあった怖い名無し:2008/02/13(水) 15:55:36 ID:TvRERp/h0
794です。
801さんのレスで思い出しましたが、院長先生も亡くなった妹さんも、私と確かに同じ小学校を出てます。大先輩です。
それがわかったのが、病院を立て直したその年の暮れに、
旦那が院長先生の家にお歳暮持ってくから、一緒にお宅に伺った際。
同窓会名が同じ封筒が玄関の靴箱の上にありましたのでお聞きすると、
確かに院長先生も事故でお亡くなりになった妹さんも、私の大先輩でした。
ただ、記念誌に写っている男の子の年齢を推定すると120歳くらいですから、院長先生がご存知なのかどうか?
(お会いする機会があれば聞いてみますけれど、理由がないとお会いしづらい;;)

実は『もう一度だけお前を助けてやる』ではなくて、
上のように劇的ではないにしろ、その後もいろんな場面で、いろんな形で、(としか表現しようがないのだけれど)
今日まで何回も(後で危ないところと気づく事もあった)助けられています。
で、上に書いたあのとき、土手で私を追いかけてきた男が、
ただの変質者だったのか、人外の者だったのかはわからないけれど、
祖母が子供の頃は、河原でカマイタチに切られる人が出ると聞かされていたそうです。
(カマイタチがタバコを欲しがるのかな?;;)
今はススキの土手も整備されて、散歩道として平和で綺麗な公園になってます。

ところで、私は日常ではまったく幽霊とか見えません。その類の写真にもご縁ありません。
学生時代に夜の多摩湖へドライブいったとき、
友人の数人が「ほらあ、あすこにいんじゃない!」とか、
青梅街道へ入る手前で「今の見た?何であんなとこにおじいさん立ってんの!?」とか・・・
残念、私まったく見えませんでしたから。(霊感ないのよほんと;;)


861 :本当にあった怖い名無し:2008/02/18(月) 02:48:34 ID:oUJTBgf90
>>794です。
今日、院長先生の家にお邪魔してきました。そのご報告です。
ここでいろいろアドバイス頂きましたが、
結局電話でストレートに「記念誌のことで先生に教えていただきたいことがありましてー」と言うと、
「どうぞ、どうぞ、隠居は年中ひまですから、いらしてください』とのこと。(なんだか申し訳ないやら;;)
結果から言うと、あの記念誌に写っていた少年と門衛のおじいさんは、院長先生に縁ある方々ではありませんでした。
が!少年に関しては色々と情報を入手。(後述)

記念誌の創立当時の写真に写っていた、腰にサーベルをさしていた黒い軍服のおじいさんは、
元喜入藩の藩士だった方で、官軍(明治政府の軍隊)を退役してからは、
駐屯先のわが母校の門衛をされていたと言うこと以外は・・・

院長先生が私の小学校のときの体験談を聞かれて何かを感じられたのか、はたまた馬鹿な後輩のわたしを哀れんでか、
その場ですぐに同窓会の理事長さん(院長先生の同級生)に電話を入れてくださいまして、
創立50周年記念誌や古い名簿や古い学校史を調べてくださいました。
特にその少年は学校史に残る好人物として(?)、調べるのにそんなに時間はかからないはず、
とおっしゃってくださいました。


862 :本当にあった怖い名無し:2008/02/18(月) 02:54:36 ID:oUJTBgf90
私がついつい居座って、妹さん(私が助けてもらった看護婦さん)の昔の写真とかを拝見しながら、
私もみっともなくうるうる状態で院長先生と待つこと一時間。
同窓会の理事長さんから院長先生のお宅へ送られてきたFAXには、
達筆で『伝説の算数教師 逸話いろいろ』なんて茶目っ気のあるタイトルがwww

明治31年、母校の小学校を卒業(第一期生)後、高等師範学校へ。
縁あって2年の海軍工廠勤めを終え、大正2年から昭和23年に急性肺炎で没するまで、
母校の小学校で幾何(算数)の教諭を務め、戦後の学校再建にも大いに貢献された。

・あるとき、担任していた組の男子児童の一人が、家庭の事情で学校に来なくなった。そこで先生はその子の家へ。
 家へ行くと、家の者から「あの子はもう奉公に出しました」と。
 一週間後、先生はその子の奉公先の富山県へ会いに行き、当時貴重だった大学ノートと鉛筆を渡す。
 先生はその後も、毎年その子あてに教科書と学用品を送った。
 昭和22年、関東へ戻った彼(児童)が創立した会社は、
 その後、日本中の女性の脚線美を促す一流企業となった。(どこ?;;)

・児童を連れて遠足で高円寺に行った折、
 当時の高円寺付近は、作物をあさるイノシシが良く出るうな藪林が周辺にあった。
 遠足当日の昼、道端の畑で児童が持参した握り飯を食べていると、藪の中からイノシシが出たが、
 先生は手に石を持って猛烈なる勢いでイノシシに突進(??::)して気絶させ、児童を守った。

・戦時中、教え子だった出征兵士を見送る駅のプラットホームで、
 「皆、死ぬな、必ず生きて帰って来い!」と大声を出した。
 それを見ていた者が特務に密告、聖職者があるまじき行為と処断され、処罰を受ける。(処罰の内容は不明)
 一時期(昭和19年、20年)、学校名簿からその先生の名前が削除されている。

・やはり戦時中、女子児童に薙刀を指導すべしとの学校長の支持ありながら、
 女子児童を鍛錬と称し河原まで駆け足で連れ出し、自由にヨモギ、どくだみ、芋弦を摘ませて、
 各々の家に持って帰らせていた事が発覚。
 何度も自宅謹慎処分を受ける。


863 :本当にあった怖い名無し:2008/02/18(月) 02:56:31 ID:oUJTBgf90
・昭和22年、焼けた校舎を再建する際、
 空襲で焼けて曖昧になってしまった境界線と土地の面積算定を自ら買って出る。
 児童たちとわずか4日で正確な測量図面と面積書類を作り、
 境界に目印となる石を打ち込み、(現存してるらしいです)
 運動場のならしが終わると、児童の遊具の設計を全て一人で行う。
 しかし物資不足の折、校舎の再建と遊具の完成を待たずに、
 栄養失調に伴う肺炎で、昭和23年12月に自宅にて遷化。

・教え子の中からは著名な企業家、作家、音楽家、研究者など、戦後の復興を担った同窓生を数多く輩出しており、
 記念文集『先生の思い出』も同窓会で編纂され、教え子に配布されている。(上の逸話もそれらから抜粋)

FAXを一読して、
「いやあ、豪胆な方だったのですね。ええ、ええ、この方ですね」と院長背院生は感心されることしきり。
若くして亡くなられた院長先生の妹さんの時もそうでしたが、
こんな立派な先生(の少年姿?)に守ってもらったんだ私はと思うと、
光栄やらもったいないやらで・・・しばらく胸がいっぱいで言葉が出ませんでした。

院長先生や妹さんとの因果関係はわかりませんでしたけれども、
あの産院では院長先生の妹さんが、私の母校ではあの少年が(いや算数の先生?;;)、
それぞれの立場で小さい命を守っていらっしゃるんだと・・・そう思いました。

長文まとまんなくってごめんなさい。(感動引きずっててまだ寝れないわ;;)

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