「『逆さの樵面』1/2」の続き
死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?116
841 :6/13:2005/12/11(日) 20:21:06 ID:CUnu3Rn40
当時、在村の建設会社に勤務していた父は、職場で『樵面発見』の報を聞きました。
社長がもともと舞太夫で、父に神楽舞を勧めた本人だったため、
早退を許してもらった父は、さっそく面が見つかったという矢萩集落の土谷家へと車を走らせました。
もともと山間の千羽でも特に険しい地形にある矢萩集落は、
町ほど露骨ではなかったものの、いわゆる部落差別の対象となるような土地でした。
父のころにはまだその習慣が残っていて、あまり普段は足を向けたくない場所だったといいます。
その集落にある土谷家は、もともと県境の山を越えてやってきた客人の血筋で、
集落では庄屋としての役割を果たしていたようです。
江戸時代から続くといわれるその古い家屋敷に、噂を聞きつけた幾人かの人が集まっていました。
その家の姑である60年配の女と、役場の腕章をつけた男が言い争いをしており、
その間に父は先に来ていた太夫仲間に、ことのあらましを教えてもらいました。
どうやらその日の朝に、役場へ匿名の電話が入ったようです。曰く『樵面を隠している家がある』と。
『それは土谷家だ』とだけ言って電話は切られました。
不審な点があるものの、とりあえず教育委員会の職員が土谷家へ向かい、ことを問いただすと、
「確かに樵面はある」と認めたのでした。
842 :7/13:2005/12/11(日) 20:23:20 ID:CUnu3Rn40
言い争いは平行線だったようですが、とりあえず土谷家側が折れて、父たちを屋敷へあげてくれました。
歴史ある旧家だけあって広い畳敷きの部屋がいくつもあり、
長い廊下を通って、玄関からは最奥にあたる山側の奥座敷の前で止まりました。
どんな秘密の隠し場所に封じ込められていたのだろう、と想像していた父は拍子抜けしたと言います。
姑が奥座敷の襖を開けたその向こうに、樵面の黒い顔が見えたのです。
しかしその瞬間、集まった人々の間に「おお」という畏怖にも似た響きの声が上がりました。
「決して中へは入ってはなりません」と姑は言い、「悪いことは言わないからこのままお引取りを」と囁いたのです。
「明かりもなく暗い座敷の奥から、どす黒い妖気のようなものが廊下まで漂ってきていた」と父は言います。
締め切られていた奥座敷の暗がりの中、奥の中央に位置する大きな柱に樵面は掛けられていました。
しかしその顔は天地が逆、つまり逆さまに掛けられているのです。
しかも柱に掛けられていると見えたのは、目が暗がりに慣れてくるとそうではないことに気づきます。
面の両目の部分が釘で打たれ、柱に深く打ち留められていたのです。
「なんということをするのだ」と古参の舞太夫が姑に詰め寄るも、教育委員会の職員に抑えられました。
「とにかくあれを外します」と職員が言うと、姑は強い口調で「目が潰れてもですか」。
843 :8/13:2005/12/11(日) 20:24:09 ID:CUnu3Rn40
父は耐え難い悪寒に襲われていました。
姑曰く、あの天地を逆さにして釘を目に打たれた面は、強力な呪いを撒き散らしていると。
そしてこの座敷に上がった人間は、ことごとく失明するのだと言うのです。
「バカバカしい」と言って、座敷に入ろうとする者はいませんでした。
古い神楽面には力があると、信じているというより理解しているのです。
だからこそ翁面を小さな行李に入れ、
また、『1年使わないと表情が変わる』と言われる般若面の手入れを欠かさないのです。
入らずには面を外せない。入れば失明する。
だからこそ土谷家では、この奥座敷の樵面を放置していたわけです。
調度品の類もない畳敷きの座敷は、埃と煤で覆われていました。
「明治の前よりこのままだ」と姑は言いました。
何か方法はないかと考えていた太夫の一人が、
「あんた、向かいの太郎坊に、取りに入らせたらよかろう」と手を打ちました。「あれはめくらだから」と。
父はなるほどと思いました。
確かに土谷家の隣家の息子は目が見えない。彼に面を外させに行かせたらいいのだ。
ところが、姑は暗い顔で首を振ります。
そして、この樵面の縁起を訥々と語り始めたのです。
844 :9/13:2005/12/11(日) 20:25:21 ID:CUnu3Rn40
かつて日野草四郎篤矩によって神楽を伝承された4家は、その後も大いに栄えたと伝えられている。
ところが姑曰く、土谷家はその4家よりも古い神楽を伝えられているという。
日野家と同じ客人(まろうど)であった土谷家こそが、
日野家以前にこの千羽に神楽を伝え、千羽神楽の宗家であったのだと。
ところが、あらたに入ってきた遠来の神楽にその立場を追われ、
山姫などいくつかの演目と面、そして縁起まで奪われてしまったのだと。
そしてこの樵面こそ、土谷家が今はいずことも知れない異郷より携えて来た、祖先伝来の面なのだと。
それを日野家由来とする資料は、ことごとく糊塗されたものだと。
そうした経緯があるためか、4家のみによる神楽舞の伝承が壊れたのちも、
土谷家からは舞太夫を出さないという仕来りがあった。
しかし江戸時代の末期に、とうとう土谷家の人間が舞太夫に選ばれることとなった。
土谷甚平は迷わず樵面を所望したという。
ところが樵面を着けた夜、甚平は葉桜の下に狂い、村中を走った。
そして、この世のものとは思えない声でこう叫んだ。
「土モ稲モ枯レ果テヨ。沢モ井戸モ枯レ果テヨ」
そして面の上から自らの両目を釘で打ち、村境の崖から躍り出て死んだという。
死骸から面を外した甚平の姉は密かに面を持ち去り、土谷家の奥座敷の柱に逆さまにして打ちつけた。
その年より村は未曾有の飢饉に見舞われ、また『戸口に影が立った家』には、いわれ無き死人が出たという。
846 :10/13:2005/12/11(日) 20:27:06 ID:CUnu3Rn40
樵面は樵でありながら神そのものであり、その神に別の神の言葉を喋らせ、別の神の舞を踏ませたことが、
面の怒りをぐつぐつと長い年月に亘って煮立たせていたのだという。
そして甚平の体を借りて、呪詛を村中に撒き散らせたのだ。
いわば、日野流神楽への土谷流神楽からの復讐だった。
その樵面は未だに土谷家の奥座敷にて、この村を呪い続けている・・・
姑の口から忌まわしい恩讐の話を聞かされた父たちは、その場に凍りついたままだったといいます。
憑き物がわずかに取れた顔で、姑は肩の力を抜きました。
「太郎さんはいけんよ。次は命がないけんね」
その言葉を聞いて、太夫や職員は色めきました。
姑はつまりこう言っているのです。
『太郎さんの目が見えないのは、むかし樵面を取りに座敷に入ったからだ』と。
結局、一堂は土谷の屋敷から離れました。
そして近くの神社に寄りあって、どうしたらいいのか協議をしました。
壁を壊して座敷の裏側から面を外してはどうか、という意見が出ましたが、
土谷家の人間を説得できない限りそんな無法はできない、という結論に至るばかりです。
さりとてこのままにはしておけないと頭を抱えていたとき、一人の老人が寄り合い所を訪れました。
847 :11/13:2005/12/11(日) 20:27:47 ID:CUnu3Rn40
90年配の高齢と思しき老人は、自分が樵面を外すと言いました。
「人に外せないなら、人ならぬものが外せばいい」と。
再び土谷家へ出向いた一堂は、ことの次第を姑に話しました。
老人の手を握り、承知した姑は奥座敷に案内しました。
襖を開け、再び樵面にまみえた父たちは怖気づきましたが、
控えの間から白い人影が現われたとき、えもいわれぬ安堵感に包まれたと言います。
山姫の面に格衣、そして白い布を羽織った老人が、静々と歩みよって来たのです。
そして神歌とともに舞いながら、ゆっくりと座敷の内側に入り込んで行きました。
息を呑む父たちの前で、不思議な光景が繰り広げられていました。
暗い座敷の中で、白い人ならぬものが舞っているのです。
太夫の一人が叩く神楽太鼓の響きの中、山姫はひと時も止まることなく足を運び、
円を描きながらも奥の柱の樵面へ近づいていきました。
山姫の手が樵面へ触れるや否や、面の両目を打っていた釘がぼろぼろと崩れ落ちました。
100年以上も経っているため腐っていたからでしょうが、父にはそう思えませんでした。
この襖の向こう側は人の領域ではないのだから、何が起こっても不思議ではないと、素直にそう思えたのです。
848 :12/13:2005/12/11(日) 20:29:52 ID:CUnu3Rn40
ちょうど舞が終わるころ、黒い樵面を携えて山姫が座敷から出てきました。
「もう舞うことはないと思っていた」
森本弘明老人はそう言って、山姫の面を外しました。
『山姫の舞』『火荒神の舞』『萩の舞』
三舞復活縁起のまさにその人が、最後の『樵の舞』の面を取り戻したのです。
父は得体の知れない感情に胸を打たれて、むせび泣いたそうです。
その後に樵面は、土谷家ゆかりの神社に祭られることになりました。
演目としては催されることはありませんが、『樵の舞』は土谷家に密かに伝わっていたため、
これで失われていた4つの舞が蘇ったわけです。
のちに父は機会があり、森本老人に舞太夫としての心得を聞きました。
森本老人は「素面にあっては人として神に向かい、面を着けては神として人に向かうこと」とだけ教えました。
「神そのものに心身が合一すると、はじめて見えてくるものがある」
そう言って笑うのです。
千羽神楽の中で樵は山姫と恋仲にあることが、演目のなかに見えてきます。
しかし、山姫などのいくつかの演目は、いにしえの土谷流と日野流ではまったく違うものであったといいます。
現在の土谷家に伝わっていたのは『樵の舞』だけであったため、
『山姫の舞』などは日野流と面を同じくこそすれ、一体どんな演目であったのか皆目わからないのです。
850 :13/13:2005/12/11(日) 20:31:17 ID:CUnu3Rn40
しかし、森本老人はあの樵面を取り戻した舞の中で、山姫は樵を愛していることが分かったと言います。
「きっと、いにしえの舞でも、山姫と樵は恋仲にあったのだろう。
だからこそ、樵面をあの座敷から出すことができたのではないか」と。
その言葉に父は頷きました。
神楽とは、一方的に与え、一方的に奪う、荒ぶる神との交信の手段なのだと私は思います。
神を饗待し、褒め、時には貶し、集落で生きる弱き者の思いを伝え、
また、その神の意思を知るために、神楽が舞われるのだと思います。
『神』を『自然』と置き換えてもかまいません。
日本の神様は怒りっぽいということを聞いたことがあります。
しかし、荒々しい怒りとともに、たいていその怒りを鎮める方法も同時に存在するものです。
たぶん、陰々と千羽を呪い続けた樵面にとって、あの森本老人の山姫の舞がそうであったように。
その出来事のあと、私が生まれる数年前に、
森本老人の家の戸口に影が立っているのを、多くの人が見たそうです。
あの樵面の呪いにより、いわれ無き死人が出るという影です。
しかしその日は、1世紀にわたって生きた舞太夫の、大往生の日だったということです。
次の記事:
『転んだら死んでしまう村』
前の記事:
『逆さの樵面』1/2